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時事ネタに絡めて、視点を多角化多角化する本を紹介します。
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原発避難の小4に担任が「菌」発言 いじめ相談の5日後/隠される3号機爆発映像

原発避難の小4に担任が「菌」発言 いじめ相談の5日後:朝日新聞デジタル 2016/12/2

 新潟市の小学4年の男子児童が、担任の40代男性教諭から名前に「菌」をつけて呼ばれ、1週間以上学校を休んでいることが、保護者や学校への取材でわかった。児童は5年前、東京電力福島第一原発事故福島県から家族と避難していた。同級生からもそう呼ばれ、この担任に相談していたという。 

 

www.youtube.com

 

この映像は、ドイツのテレビ局がフクイチ3号機の爆発の様子を伝えたものでした。放射能汚染の程度を多くの人々が心配する中でまっさきに隠蔽された映像でした。1号機の爆発映像についてはこれほどの大爆発は起きておらず、それほど心配しなくてもよいかもしれないと思わせる内容であり、その後も何度も流されましたが、この映像に関しては、何度アップロードされても著作権違反として削除されました。

 

この事実からわかることは、

著作権違反」という法律が人々に事実を知らせないために役立っていることと、

人は重大な事実であればあるほど隠したがるということでしょう。

 

どんなに普段立派なことを言っていてもいざとなればいとも簡単に隠蔽や保身に走る。

 

だからこそ、法律などというものにまかせてはならないし、隠蔽できる状況を作ってもいけないのです。

 

根本まで遡れば、誰も正義面することなどできず、誰もが隠しごとをし、保身に走るということを前提に作られた社会でなければうまくいくはずなどなく、主に優秀といわれるユダヤ人たちが活躍して作りあげた現代社会は根本から否定されなければいけないのです。

 

 

 

 

電通の自浄能力/NHKの報道倫理

電通、NHK取材に「自浄能力がない」と感想を述べた若手社員を「戒告」の懲戒処分にして自浄能力のなさを改めて示す:MyNewsJapan 2016/11/30

電通が、社長セッションのあとでNHKの出待ち取材に答え「自浄能力がない会社だなと思う」等と感想を述べた20代社員に、始末書を書かせて「戒告」の懲戒処分を下していたことがわかった。先週(11月21日の週)の局会や部会等を通して、大半の現場社員に知れわたった。社員からは「ごく普通の意見で何も処分されるような内容ではない」「経営側にとって都合の悪い話が出ないよう、締め付ける目的」「かわいそう」といった同情の声ばかりが聞かれた。NHKは本人を特定できる形で、かつ「40代社員」と見た目で適当に判断して年齢を偽った報道を行い、翌日になって該当部分を丸ごと削除。誤報のうえ、取材協力者に報道被害を与え、処分で電通社内を萎縮させ、視聴者には説明なく突然「なかったこと」にするという、報道倫理が欠落した、ずさんな仕事ぶりだった。 

この記事を読むと、人は理性的な存在であるということが前提にされているようである。組織は自浄能力を持つことができ、報道倫理を持つことができるという建前である。

 

ところが、人は本来どのような存在であるのかを調べていくことで見えてくるのは、まったく逆の事実である。

 

人がもっとも人らしく生きていた時代は、狩猟採集の時代であり、子育てや精神的成長、知力の成長に欠かせない環境が存在し、生物は死ぬのだという事実に即して、日々を楽しむ生き方ができていた。この時代、人は利己的な存在であることを皆が知っており、だからこそ平等性を高めるように規範ができていた。集団を作ることが優位に働く社会の中で、利己的な人々は集団の規範に従うほうを選んでいた。それと同時に、ときには家族だけで暮らす自由も持ち合わせていたのだ。自由に移動し、自力で食べ物や薬草、必要な道具を手に入れることができることが、強制力を持つリーダーを生まず、人は無理に犠牲を強いられることもなければ、意志を曲げる必要もなかったのだ。

 

今はどうか。支配者たちは資源を独占し、制度を作りあげて、生きていくためには、意に沿わない命令に従い、組織に逆らわないようにするしかない状況を作りあげてしまった。自浄能力とか倫理という概念をどんなに作ろうが、狩猟採集社会のように自力で生きていくことのできる環境が奪われてしまっている以上どうにもならないのである。

 

人は理性的な動物などではなく、生きる手段によって行動が規定される、利己的な生物でしかないという事実を前提として考えていかないと、いつまでも幻想を追って犠牲を払い続けることになってしまうのだ。 

 

 

 

 

 

美濃加茂市長に逆転有罪=浄水設備汚職―名古屋高裁 (時事通信) - Yahoo!ニュース

美濃加茂市長に逆転有罪=浄水設備汚職―名古屋高裁 (時事通信) - Yahoo!ニュース

岐阜県美濃加茂市の雨水浄化設備導入をめぐり現金30万円を受け取ったとして、受託収賄罪などに問われ一審名古屋地裁で無罪となった市長の藤井浩人被告(32)の控訴審判決が28日、名古屋高裁であった。

 村山浩昭裁判長は一審判決を破棄し、懲役1年6月、執行猶予3年、追徴金30万円を言い渡した。

 「市長に現金を渡した」とする贈賄側供述の信用性をどう判断するかが焦点。一審判決では信用性が否定され、検察側が控訴していた。 

昨日も裁判関係の記事を取り上げた。

この判決も、小沢一郎氏の事件と同じく、実に不可解な判決としかいいようがない。

 

こうして、どう考えても疑問の残る判決が繰り返さえながらまだ、法治主義を信じているとすれば、それは、文明の支配者たちによる価値観の植え付けにまんまとやられているにすぎないのだ。

 

私たちが目指すべきは、法の公平な執行や、司法制度の改革ではなく、巨大組織を作りあげてあらゆるものを独占できる現実を壊していくことなのだ。

 

 

他人の便利にNO!と言いたい

他人の便利にNO!と言いたがる人たち - おのにち

他人が「便利になる」こと、「楽をする」ことは悪いことなのか。
本当にデメリットはあるのでしょうか。何事も昔のままが一番なの?

あなたはどう思われますか? 

農耕は食料確保を便利にしたかもしれないが、人口増加を招き格差社会を作り戦争を生みだした。

穀物は便利な食べ物ではあるが穀物を食べ始めた途端に人は虫歯を作り、顎を弱くし、歯のかみ合わせが合わなくなってしまった。

言葉は便利ではあるが、言葉があるせいで、人は個々に経験から学び、柔軟に対応することを許されず、言葉によって作りあげられた社会に縛られて、一生を誰かの価値観ばかり学んで過ごすようになった。

電気は便利であるかもしれないが、電力を作りだす仕組みはどれも大規模な環境破壊を招いており、もはや行きづまっている。

医療は人を助けてなどおらず、むしろ誰も何のために生きているのかわからない暮らしを作りだしている。

最も大切なことは、人は死ぬ存在であるということを、便利な生活は人々に意識させないようにできあがっているというポイントである。人が機会や労働者+消費者あるいは家畜・ロボットとしてではなく、人として生きることができるのは、便利さとひきかえにあらゆる側面を支配制御される生活などではなく、不便で不足しているが、自然と向き合って体感しながら直接経験から学ぶ生き方しかないのである。

 

 

和歌山毒カレー事件の真相は、林家同様ヒ素を保持していた近所の一家の... - Yahoo!知恵袋

和歌山毒カレー事件の真相は、林家同様ヒ素を保持していた近所の一家の... - Yahoo!知恵袋

河合潤@京都大学です.この数年間,カレーヒ素事件の鑑定書を,研究の一環として解析しています.chiebukuroのこのページのことを知らせてくれた人がありましたのでちょっと書いてみようと思います.学生に手伝ってもらってYahooになんとか登録できました.

最近(2016年9月)も和歌山地裁に意見書を提出したばかりですが,その最後で「私(=河合)の一連の鑑定書・意見書が鑑定を超えて指し示す新たな真実は,不明な動機によって4名を殺害し63名に傷害を負わせた真犯人は,凶器の亜ヒ酸を現在も所持したまま,野放しであるという事実である」と結論しました.

科警研は,カレーに亜ヒ酸を投入したとされる紙コップに付着した亜ヒ酸が,H所持の亜ヒ酸とは組成が異なることを知りながら,化学分析で得られた組成比を100万倍して対数(log)をプロットして同一であるかのように見せかけていたことを『季刊刑事弁護』誌No.85に書きました.100万倍や対数などでごまかさずにプロットすると,紙コップの亜ヒ酸はH所持亜ヒ酸とは明らかに組成が異なることがわかります(末尾のクロアチアの本にカラーの図を掲載しています).『季刊刑事弁護』ではカレーヒ素事件を中心として虚偽や捏造の鑑定書が裁判で横行していること,その見分け方を連載しています.この雑誌は弁護士が読む雑誌です. 

大々的に報道されている事件のほとんどは、この事件同様、真実とはまるでかい離した内容の報道が繰り返されているようだ。警察もまた真実とは違うことを認識していることが多いようでもある。

 

奈良の騒音おばさん舞鶴の女子高生殺人、光市母子殺害事件。事件の報道は、政治における重要な局面から目をそらさせる役割を担っていたり、処罰の強化を狙っていたり、いわゆる善良な市民とどうしようもない人々という把握の仕方を強化させる役割を担っているなどその目的もさまざまではあるようだ。

 

ただひとつ言えることは、決して一般大衆の役に立ってなどおらず、報道によって結局損害を被る側は常に一般大衆の側なのだということである。

 

マスコミが大げさに騒ぎ立て始めたなら、報道の対象となっている内容自体ではなく、何を目的として騒いでいるのかを見極める必要があるのである。

 

 

 

 

国際金融家から見たある歴史作家/暗殺された明治維新の立役者

江戸時代の鎖国中にあっても

キリシタン聖ルカ(千利休)を通じて広めた

キリスト教の儀式(茶の湯)と茶室を利用した

スパイ活動を通じて西洋文明の支配者たちによる

諜報活動は続行されていた。

 

頃合いを見計らって実施されたクーデターが明治維新であり、

藤原政権は倒れて国際金融家たちが実権を握る日本国ができあがったのだ。

 

これにより、人々は徴兵や徴税を課され、

女工哀史蟹工船の世界へと追い込まれた。

また、藩主たちが所有して、村民に比較的自由に利用させていた

山林が私有化されたために、人々は柴や落ち葉、薪を得ることもできなくなった。

(文明とは独占である)

 

このように日本から主権を奪って、

足尾銅山の象徴するような公害を作りだし、

墓標は語る』に描かれたような

若い優秀な日本人を犠牲にし続ける国家が生まれた。

しかし、文学的表現にすぐれた才能を持った一人の男が選ばれて、

この時代を賛美したのであった。誰でも明治維新と言えば思いつく

あの有名な作家である。

こうして明治維新が美化され、

明治が私たち日本国の近代化を実現した

素晴らしい時代であると喧伝されることになった。

 

明治維新の象徴としてこの作家が選んだ男も

その実態は、まったく作家の描写とは程遠かった。

彼はただの操り人形であり、いとも簡単に暗殺されたにすぎなかった。

ただ、文章力に優れた作家の手によって

いつのまにか偉人に祭り上げられてしまったのだった。

ケネディリンカーンのように利用されているのだ)。

 

私もまた、人生の半ば過ぎまでを

騙されたまま過ごしてきたが、

一度気づいてみれば次から次へと事実が見えて来る。

 

どこに、彼らの言う民主主義が成立する余地があるというのだ。

ただただ彼らの経済活動に巻き込まれ、

彼らの提供する価値観に従って生きること以外できない世界じゃないか。

 

しかし、まだ可能性は残っているのは、

彼ら自身もまた生物でしかないという事実があるからだ。

生物として本当に充実感のある生き方は

生物本来の生き方であり、

彼らもそこに暮らしている地球の環境を守るのもまた

生物本来の生き方なのである。

だから、彼らもやはり今の生き方を捨てて

生物本来の生き方に戻るはずなのだ。

 

話がずれた。

あの歴史作家もあの歴史上の人物も

利用された存在であることだけは忘れないでおいて

いただきたいのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水木しげるさん一周忌

2015年11月30日に亡くなられてから間もなく一年が経ちます。

 

水木さんが戦時中にしばしば現地の先住民のところに遊びに行っていて、そのまま現地に残ろうかと思ったほど先住民の生活にほれこんでいたことは知っていましたが、その頃はまだ、今ほど知識を持っていなかったので、このことの重要性を認識していませんでした。

 

かつてと今とでは、私の知識は大きく変わりました。

 

まず、陰謀論*を知ったこと。この視点から文明社会を見ると、規模の大小は問わず、常に支配者がいて、人々を働かせては、富を一人占めしようとしてきた社会が文明社会であるという基本図式を得ることができました。

(*『世界支配者VSライトワーカー』)

 

つぎに、人類学、特に文化人類学*の知識を得たこと。これにより、人の本来の姿は、どこまでも動物に近い姿であることを知りました。動物に近いとは、勤勉労働とは程遠く、楽しく暮らし、無理に命を生きながらえさせようとしない姿です。

(**『子どもの文化人類学』『ピダハン』『森の猟人ピグミー』『アボリジナル』『身体の人類学』 『人間が好き』)

 

つぎに、その視点から宗教を捉えなおしたこと。キリスト教イスラム教、仏教のいずれにしても、宗教が説いている価値観は、人を支配する文明社会の価値観でしかないということがわかりました。このような宗教を信じ込むと人は本来の姿に戻れなくなってしまいます。

 

さらに、人の認知について知ったこと***。薬効成分を含まないプラセボ(偽薬)を薬だと偽って投与された場合、患者の病状が良好に向かってしまうプラセボ効果は、むしろ生物に与えられた有効な能力であると把握し直すことや、気や自己暗示、自己催眠の効用を知ったこと、そのため人にとっては、外界の物理的な条件以上に内的世界のほうが重要性が高いとわかってきました。

(***『脳の神話が崩れるとき』『自己暗示』『催眠法の実際』『宇宙無限力の活用』『アワ歌で元気になる 驚きのコトタマパワー』 )

 

また、死についても学びました****。人にとって死は極めて重要な意味を持ち、死ぬことを前提として生きていくとき、日々を楽しく過ごすことや、先人たちから受けとった、生命の舞台としての地上をそのまま後世の人々に残すことこそが、主体的に生きるということなのだと考えるに至りました。

(****『サバンナの動物親子に学ぶ』『看取り士』『覚醒する心体』『アルピニズムと死』 )

 

さらには、健康や子育てについて調べ*****、人が作る食べ物(農作物・家畜)こそが病気の元であることや、狩猟採集生活こそが最良の子育て環境であることを知りました。

(*****『家畜になった日本人』『愛は化学物質だった!?』『子どもの文化人類学』『医療人類学』『ピダハン』『森に生きる人』)

 

人類はサバンナで誕生したのではなく、森で生まれたのだ*****という視点を得ることもできました。

(『はだかの起原』『モリはまんだら』)

 

こうした知識を得た上で、水木さんの妖怪が精霊信仰を表すものであったことを知り、水木さんが精霊信仰こそがあるべき宗教の姿だと考えておられたことを知って、ジャングルで水木さんが先住民の暮らしにほれ込んだことの重要性をようやく知ったのです。

 

生来のエゴイストでもあるという水木さんが、動物的な生き方をしている先住民と出会い意気投合するのは当然でした。そして、そのような生き方をする上で不可欠だったのが、自然界を生命としてとらえる精霊信仰でした。人間の都合などおかまいなしの思うようにならない生を受け入れるためにも精霊信仰は必要だったことでしょう。

 

元々、妖怪という目に見えない世界の話を好んでいた水木さんが、先住民の精霊信仰の世界を知って魅了されないはずがありません。しかも、相手のセノイ族は、人の本来の生き方である狩猟採集生活を続けていた人々であり、夢の見方を制御したり、夢で意志を伝えたりする、とびっきり高度な精神世界を築いていた人々でもありました。

 

つまり、水木さんがゲゲゲの鬼太郎などを通じて私たちに伝えてくれていたのは、人の本来の生き方をしている人々から学んだ、あるべき宗教の姿だったのでした。

 

私たちをこのあるべき姿から遠ざけてきたのが、農耕であり、文明であり、そこに発達してきた宗教でした。私たちは、精霊の世界から遠ざけられ、貨幣経済を拡大させるために一生利用される存在になっています。水木さんご自身は、陰謀論や文明の支配者という視点を持っておられず、したがって文明と精霊信仰は共存できると考えておられるようです(だからこそマスコミに取り上げられもするのでしょう)。しかし、事実は違います。文明の支配者がいて、私たちからより多く搾取しようとしている限り、精霊信仰が復活することはありません。

 

水木さんは、「物を持たない、物に執着しない、というのが精霊に好かれる条件なのだ」とおっしゃっています。精霊に好かれる生き方をするということ、それは、生命の舞台を損わない生き方をするということでもあると思います。私は皆さんに精霊信仰を広めていきたいと思っています。何も、いかがわしい話ではありません。もし目に見えないけれども木の陰や水の暗がりに精霊がいるとすれば、そのような精霊に好かれる生き方とはどのような生き方なのかを日々考えながら生きることでよいと考えています。

 

皆が精霊信仰になれば、この文明社会に支配者が存在していることがあからさまになると私は考えています。この記事をきっかけに、人の本来の生き方や、精霊信仰というあり方に興味を持っていただけたらと思います。

 

水木さんの本:『水木サンと妖怪たち: 見えないけれど、そこにいる