書評『自然の死 科学革命と女・エコロジー』
評価:★★☆☆☆
どこで知ったのか忘れましたが、自然・科学技術・女性・エコロジーというテーマに興味を持ちました。
大変よくまとめられたページがありました。
自然の死 ( メンタルヘルス ) - さて何処へ行かう風が吹く - Yahoo!ブログ
◆キャロリン・マーチャント『自然の死――科学革命と女・エコロジー』(1985年、工作舎)
「エコロジカル・フェミニズム」ないしは「フェミニスト・エコロジー」の旗手、キャロリン・マーチャントによって書かれた本書は、科学は「客観的な真理」であるという「依然として有力な常識的見方」を「打ち破ろう」とするものである。
本書は、「機械論」の立場に立つ近代科学が、近代産業社会を支える「倫理」および「生産力」として機能してきたことを明らかにしている。
本書によれば、ベーコン、デカルト、ニュートンなどにより打ち立てられた近代科学は、「世界・自然についての従来の見方に代わる、なにか純粋で、客観的な、新しい見方・世界像」を提出したのではない。それはなによりもまず、自然と人間(とくに女)を資源として支配・搾取してかまわない、あるいは、「人類の幸福」のためには、それらを積極的に支配・搾取すべきであるということを説く「倫理」だった。
従来の「有機的」(あるいは「ヘルメス的」)世界観では、自然世界は「死せる物質」などではなく、それ自体が生命をもち、生きているとともに、人間と連続的で、共感可能で、「はたらきかけあい」の可能な、魂や精神をもった存在として理解されており、当然ながら、乱開発、略奪的利用、自然破壊は厳しく抑制されてきた。
ところが、科学革命、宗教改革、近代的な政治体制の改革を推し進めた「主流派」は、一方では社会改革を求める農民の反乱や急進的運動を徹底的に弾圧しつつ、他方では「ヘルメス主義」思想の持ち主を異端の嫌疑によって脅しつつ(「魔女狩り」)、新しい科学理論の提出というかたちで「ヘルメス主義」を論駁することに力を注いだ。
フランシス・ベーコンは、従来の倫理観を逆手にとって、自然は女(she)であるがゆえに、男の科学者たちは、彼女をぜひとも支配し奉仕させなければならない、と説いた。デカルトは、非物質的で純粋な自発性としての精神と受動的物質・身体の二元論、そして、物質・物体は直接的接触による外的な力によってのみ動かされるという「機械論」を打ち立てることにより、精神と物質の媒介をするものとしての、その両者の性質を兼ね備えた「スピリット」ないし「プネウマ」、そして、両者の結びついた「生命」ないし「アニマ」を、自然界から排除した。
かれらによれば、魂、精神をもつ人間以外の自然は、死んだ物質粒子ないし原子の集合であり、動物は「ぜんまい仕掛けの機械」なのである。したがって、人間が人間以外の自然的存在を殺し、破壊し、搾取・利用することに対する従来の抵抗感も、それに「負い目」を感じる必要も一切消滅する。かれらは新しい学問の方法論を展開し、また新しい自然観を提出することによって、科学革命を推し進めたのだが、それは同時に、自然を搾取・開発することを正当づけ、積極的にすすめる「倫理」――いわば「反・環境倫理」を唱えることでもあった。
デカルトも『方法序説』のなかで述べているが、英国の王立協会、フランスのパリ科学アカデミーに結集した新しいエリート科学者たちは、政治は一般人が口を出すべきものではなく、王侯や貴族、貴人たちに任せておくべきものであると説いた。また、ボイルの遺言にもとづいて始められたボイル・レクチャーの講師たちは、ニュートンの自然哲学を急進主義者たちの思想に抵抗するために利用し、宣伝した。かれらは高貴な精神・魂が不活性な物質的自然・肉体を支配すべきであるように、社会の中ではエリートが一般大衆である農民や労働者を支配し、また男が女を支配するのが当然であると説き、平等主義的社会を否定し、科学・技術によって自然を支配・搾取することによって、物質的富を増大させることをすすめたのである。――こうして、デカルト、ニュートンらの自然哲学は、自然に対する実践的関わり方の規範、つまり、ある種の「環境倫理」であったし、また社会のあり方と社会に対する関わり方についての規範、つまり、ある種の「社会倫理」でもあったのだ。
さらにまた、その「反・環境的な倫理」が、生命も魂も持たない死せるものとしての自然の搾取・開発を正当化した結果、経済活動において、森林の伐採や地下の金属・鉱物の採掘が大々的にすすめられ、産業革命を準備した西洋の資本主義の「生産力」の拡大をもたらした。すなわち、新しい科学理論は、それ自体がひとつの「生産力」として重要な貢献をなしたのである。
――ちょっとラフな議論ですが、大筋においては、案外「当たっている」のでは。。。
上の引用で、太字で示した部分は、私が特に注目した部分です。実際、今でも、同じような魔女狩りは繰り返し行われていて、人々を真実から遠ざけているという見ている点で賛同します。
その一方で実際に本書を手に取ってみると、まずページ数の多さに驚きます。また、議論も決してわかりやすくはないと感じます。これは、本物ではない本に多くみられる特徴です。特に気になる点を挙げてみます。
・この世界は人類の都合に合わせてできてはいないという事実をどうとらえるのか。
寄生虫や病原菌を排除しようとすればさらに厄介な問題が生じるような世界、乳幼児死亡率の低下や長寿が人を生きられなくする世界、飢えを解消することなど不可能な世界に私たちが生きているとするなら、これを無視して理想を追求することは意味がありません。
・人の本来の生き方をどのような生き方であると考えているのか。
生物学的に見れば、人は定住してはいけない生物であり*、こんなに大きな社会を作ってはいけない生物です。定住したことが、人の精神に大きな影響を与えていたり、環境に大きな負荷をかけたりしています。そもそも人が労働を強いられるようになったことも定住化が原因であり、平等主義的な社会を築けないことも定住が原因です。本書はこの事実をまったく無視している点で評価しようがありません。
・科学技術と平等主義的な生き方はなぜ共存できると考えるのか。
科学技術の発達は、定住なくしてはあり得ません。しかし、定住するということは、資源の独占を意味し、平等主義的な生き方ができなくなることを意味します。もし、この事実に気づいていたなら、現在の在り方にフェミニズムやエコロジーの視点を加えて修正することがよいという議論にはならなかったと思われます。
以上の点で、本書は熟読する価値のない本であると私は判断しました。
*『人類史のなかの定住革命』