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ハロウィン:古代信仰を歪曲してキリスト教に組み込んだアングロ=サクソンの呪術になぜ私たちが巻き込まれる必要があるのか

ハロウィーンにお化けやカボチャが登場するのはなぜ? (1/2) 〈dot.〉|dot.ドット 朝日新聞出版 

 ケルト人の信仰は自然崇拝で、万物に神がやどると考える日本人の信仰ととてもよく似ている。そのケルト人が秋に催していた「Samhain(サワン)」という収穫祭りが、実はハロウィーンの原型のようだ。Samhainの日は、あの世とこの世の境目がなくなり、死者が墓からよみがえる日とされ、亡霊たちが自分の家に戻ると信じられていた。このため各家では、死者のために食べ物を用意し、また亡霊たちに連れていかれないように自らも死者の仮装をすることで、生者である身を隠した。これがハロウィーンで仮装をする理由なのだ。日本各地に残っている、神の前で仮装をして舞ってみせる祭に似ていなくもない。

●地獄にも天国にもいけないジャックの哀れ

(中略)亡霊から逃れるための仮装も同様に、アメリカ人の手にかかると、何でも陽気になってしまうようだ。

 さて、アメリカ経由で日本へ入ってきたハロウィーンには、亡霊の不気味さも、ジャックの悲壮感もまったく感じられない。仮装して大騒ぎするだけの1日と化しているようで、その騒ぎっぷりに嫌悪すら感じる人もいるだろう。だが、実は面白いことに、ここ数年、日本各地のお寺では、子ども会などを相手に、「お寺 de ハロウィーン」などと表して、小さな催しを開いているところが増えてきている。

 ケルトのSamhainというお祭りの本質を考えれば、お寺で死者をもてなすという日本のお盆行事と通じるところがある。偶然の一致かもしれないが、日本にしては珍しくまっとうなイベントとして伝わっているものだと、実は感心しているところである。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)

 

毎年次第に騒がしくなるハロウィン。この祭りに、なぜ違和感を覚えるのかを明確にしておきたい。

 

『中世の祝祭』から、ハロウィンおよびその前日のサウィンに関連する部分を抜き出してみよう。

九九八年、クリュニーの第四代修道院長オディロンは、十一月二日を「死者の記念日」あるいは「故人の日」とした。オディロンは、一年のこの時期に魂が葬列に参加するという 古いケルトの風習を、キリスト教に組み込んだにすぎない。この日に死者の祭りを設けることで、サウィンの夜と結びついていた古代の信仰をキリスト教信仰にすり替え、害のないものに変えたのである。なぜなら、この古代信仰は、地獄の脅威とともに天国への希望を示すような、異なる彼岸像とも同時に結びついていたからである

 

ハロウィン

 

十一月一日の祭りは、暦上のある時期に意図的に設けられている。そして、アングロ=サクソンの国々で「ハロウィン」と呼ばれている祭りにまぎれこんでいる。ハロウィンは十一月のカルナヴァルと定義できるだろう。事実、アングロ=サクソンのフォークロアでは、ハロウィンは他界と交流するための一群の古い信仰や古い儀礼をとどめている。周知のとおり、この日になると、アメリカの若者はさまざまな変装をする。そして夜のあいだは、月の光の下で魔女たちが飛びまわるので気をつけなくてはならない。(51ページ) 

 

キリスト教の歴史を振り返ると、このハロウィンのように民衆が古代からの信仰を持ち続けていることで浸透していかない場合に、その信仰自体をキリスト教に組み込んでいくことでキリスト教を浸透させていくという行為が繰り返されてきている。植民地となり宣教師が派遣されたほとんどの地域で普遍的に行われた行為であり、むしろ、それなくしてキリスト教は普及していかないかのように世界各地で本来のキリスト教になかった概念を組み込んでいっているのである。

 

では、これがキリスト教の寛容さを表しているかというと、事実は逆である。今や古代ケルトの信仰が残っていないことからわかるように、一方的に取り込んで、意味を変容させ害をなくしてしまっているのである。

 

朝日新聞の記事にあるように、「お寺 de ハロウィーン」を喜んでいようものなら、従来からの信仰は魔女狩りによってすべて禁じられていき、ただ無害な形でのみ存続を許されるものになるだろう。それが幸せなのかというとそれも違う。

 

ピダハンやピグミー、グウィらの生活を知り、定住生活や農耕牧畜が本来の生活ではないことを知ると、農耕にせよ牧畜にせよ、本来とは違う生活が生んだ宗教は、本来の暮らしを送っていないことによる苦悩が生み出した、負の産物でしかないことが見えてくるのである。精霊信仰以外に本来的な信仰は存在しない。 

 

私がハロウィンに違和感を感じるのは、こうして、面白おかしく楽しんでいるうちに、人を苦しめるだけの宗教に組み込まれていってはいけないと警戒するからなのである。