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面白い本を紹介

時事ネタに絡めて、視点を多角化多角化する本を紹介します。
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『虹の階梯』中沢新一、チベット仏教、オウム真理教


中沢新一 "尊師とは今日でお別れ"宣言 1995

 

この動画にある『虹の階梯』を借りてきました。

 

この本から、「はじめに」の部分と「ポア」の部分を一部抜き出してみます。

はじめに

 

あなたはわたしのもとに弟子入りして、密教を学びたいと言っている。よろしい、わたしはあなたを「ゾクチェン・ニンティク」という密教体系の相承系譜につなげ、心の本然(セム・ニイ sems-nyid)のありようを知るゾクチェン=アティヨーガの瞑想修行に入るための口頭による伝授をあたえていくことにしよう。

しかしゾクチェンは密教、しかもあらゆる仏教の体系の中でも最深奥の密教である。この密教を学ぶためには、あなたの心はまだあまりにも未熟である。過去の行為によって汚れきったその心を浄化できないうちは、とてもゾクチェンの口頭伝授をはじめるわけにはいかない。そこで、まずあなたがしなければならないことは、心の流れ(心の連続体)を浄化するきびしい「加行(ンゴンドウ sngon-'gro)」の修行をやりとげることだ。それは、わたしたち行者が昔からずっとそのとおりやってきたチベットの伝統的なやり方でもある。加行の瞑想修行がすまないうちは、ラマは弟子に密教の口頭伝授をいっさいあたえないというのが昔からのきまりなのである。(13ページ)

 

「ゾクチェン(rDsogos-chen)」とは「大いなる完成」とか「偉大な到達」という意味である。ゾクチェンの見解は、アティヨーガというきわめて高度な瞑想をとおして得られる深くあざやかな神秘体験に裏づけられ、ゾクチェンにまさる境地はない。そこにおいて仏教のあらゆる修行が完成するというところから、このような名前で呼ばれている。(14-15ページ)

 

ポワ 意識を移し変える身体技法

いつ死が訪れてくるか。それは修行者にとっても定かではない。ゾクチェンの境地に到達し、心の本性を知った者にとって、死は少しも恐ろしいものではなく、むしろすべての束縛から解き放たれた心がその本然の姿にたちかえる、喜ばしい出来事と受けとられるようになる。しかし、そこにだとりつく前に死を迎えなければならない者がほとんどである。ポワ('pho-ha)は、たとえいつ死が訪れても動ずることなく、確実に心(意識)を身体からぬきだして、より高い状態へと移し変えるための身体技法であり、チベットでは密教行者ばかりではなく、一般の人々にも広く学ばれてきたものである。(280ページ) 

 ここから読み取れることは、身体とは別に意識が存在しており、修行によってより高い状態へと移ることができると考えられているということである。

 

一方で、こんな難しいことを云わずにすませている人々がいます。

身体の人類学 カラハリ狩猟採集民グウィの日常行動』によると、グウィの社会には、さしてややこしい儀礼や呪術はなく、「死ねば人は砂になるのさ」と即物的なことをいいあっけらかんとして生きているそうです。(121ページ)

また、『人間が好き―アマゾン先住民からの伝言』には次のようにあります。

人間はとりのように 静かに地球を 通りすぎていくことができます
どうして 自分の足跡を記念碑などの形にして 残そうとするのでしょう
人間をふくむ宇宙そのものが すばらしく 偉大な創造物なのに(95ページ)

 

死ぬときも 生まれてきたときと同じように
なにも 特別なことはおきません
生も死も 祖先とつながる川の流れの一部なのです
ですから 死をおそれることはありません(82ページ)

ここでは、別に高みを目指してもいなければ、心と身体を別のものとして考えてもいません。ただあるがままを受け入れて、何もなさず、恐れずに死ぬことを当然としています。

 

何がこのような違いをもたらすのかといえば、耕地の中に定住し、文字を持ち、余裕を生む社会と、耕地の中に定住せず、文字を持たず、余裕を生まない社会の違いなのではないかと私は考えます。

 

そして、私は、本来のあり方は、『虹の階梯』よりも、『人間が好き』や『身体の人類学』に描かれたようなあり方であると思います。

 

人類史のなかの定住革命』にあるように、遊動することは、「悪しきものの一切から逃れ去り、それらの蓄積を防ぐシステム」です。そして、大型霊長類は本来遊動する生物です。

 

私は、定住してしまったがための悪影響が精神的な悩みを深刻にしていると考えます。これを、定住が原因であると気づかずに別の方法で解決しようとしているものが多くのスピリチュアルな取り組みであり、本来の生活に戻れば軽減されるなり、「諦めるしかない」という現実によって解決されるなりするのだと考えています。