book_rubyring’s blog

面白い本を紹介

時事ネタに絡めて、視点を多角化多角化する本を紹介します。
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増補改訂版 なぜ欧米人は平気でルールを変えるのか ルールメーキング論入門 (ディスカヴァー携書)

人類学を学ぶことは、現代とは別の価値基準を持って社会を作りあげてきた人々の価値観を知ることである。そこから見えてくるのは、人口増加をどう抑えるのか、環境破壊をどう防ぐのか、周辺の事なる言語を話す人々とどう付き合っていくのかという課題に取り組んできた人々の知恵である。

 

平等と不平等をめぐる人類学的研究』には、明治期以前の日本の土地所有は、総有であったとという事実が指摘されている。総有とは「農業―漁業共同体に属するとみなされる土地(牧場・森林・河川・水流等)をその構成員が共同体の内部規範により共同利用するとともに、同時に共同体自身がその構成員の変動をこえて同一性を保つつうその土地に対し支配権を持つところの、共同所有形態)」と一般に定義されている共同所有の形態である。つまり、私有地であっても勝手に売ることはできず、村の人々の同意が必要であったというのである。

 

明治以降の工業化の時代に、土地の総有を認めない民法の規定は重要であった。住民たちがいかに反対しようと、所有者が賛同すればそれでよかった。所有者も反対するとなれば、今度は法を作り変えて土地を手放さざるを得なくするだけのことであった。

 

私が別のところに書いた記事、トヨタも東電もMicrosoftもGoogleも、「支配者」の意図の下で育つ - 毎日出てゐる青い空もほぼ同じ内容の指摘になるのだが、ルールを作ってしまえばどうとでもなるのが私たち人類の暮らしている社会である。

 

この社会に生きる上で常に意識すべきことは、ルールに従うことではなく、誰がどのような意図でこのルールを作っているのかに目を向けることなのである。また、私たち自身がルールを作る側を目指すことである。

 

現代社会は、マスコミや学校教育を通じて価値観を押しつけ、金のあるものが勝つように裁判制度、経済システム、医療制度などあらゆるものが作りあげられている。ルールを受け入れ、従い続ける限り、私たちは主体的になどなれないのである。

 

 

 

 

 

 

進む日本のグアム・ハワイ化

1年で永住権 年度内にも実施 | 2017/1/18(水) 8:38 - Yahoo!ニュース

 外国人の永住許可は、原則として連続10年の在留期間が必要だ。ただし、法務省は2012年から、専門知識や技術力、学歴、職歴、年収などをポイントに換算する「高度人材ポイント制」を導入し、70点以上の外国人を「高度人材」と認定して「在留5年」に短縮している。

 今回の制度改正は、70点以上の外国人を「3年」に短縮し、80点以上の特に優秀な人材を「1年」に短くする。制度が導入された12年から16年10月末まで、高度人材と認定された外国人は6298人おり、このうち80点以上の人材は4割近いとみられる。

 また、ベンチャー(新興企業)の起業など、1億円以上の高額投資を行う事業家などを加算ポイントの対象に加える方向だ。 

かつて王国として憲法を制定していたハワイがアメリカに組み込まれていった歴史を御存知だろうか。

ひど過ぎるハワイ併合の歴史【民主主義の侵略】 - NAVER まとめ

1840年には、大日本帝国憲法よりも50年先行して憲法が制定され。国際的にも独立国家として商人されていいました。

悲劇の始まりは、アメリカ合衆国の移民を受け入れてしまったことでした。

移民たちはサトウキビ栽培や輸出で経済力を付け、政治に口を出し始めました。

そして1887年「ハワイ連盟」を名乗って武装蜂起し、新憲法を受け入れさせました。

こうして、王制は廃止され、白人優遇の「民主主義」が誕生しました。

 

グアム島もまた先住民を人とも思わないキリスト教徒たちによって奪われた土地である。

世界史用語解説 授業と学習のヒント:グァム

太平洋のマリアナ諸島の島。1521年、マゼランが到達。1898年の米西戦争でアメリカ領となる。太平洋戦争では激戦地となった。

 太平洋のマリアナ諸島の中心となる島。世界周航中のマゼラン船団が、1521年に来航した。マゼランと乗組員はグアム島に上陸したが、分たちのボートを一隻盗まれたことへの報復として50軒の家を焼き払い、7人の島民を殺している。
 1565年にはレガスピ艦隊が来航して、スペイン領であることを宣言した。1668年から本格的なスペインの植民地経営が始まり、宣教師による強制的なカトリックへの改宗が進められた。島の伝統的な習慣を無視した布教は島民チャモロ人の反発を受け、1670年から95年にかけて「スペイン=チャモロ戦争」という反乱が起き、スペインはそれを武力で弾圧した。
スペイン=チャモロ戦争
(引用)先住民のチャモロ人たちは、宣教師らの熱狂的だが一方的価値観にかたまった野望にもかかわらず、はじめは無邪気に歓迎し、華やかで珍しい洗礼の儀式もおもしろくて、最初の一年間だけでも1万3千人が入信した。……しかし先住民を基本的に野蛮人としか見ていない宣教師たちは、伝統的チャモロ社会の風俗習慣を急激にキリスト教式に変えていった。……サイパン島テニアン島などにも武力をともなう布教をひろげてゆき、もはや反乱は何かのきっかけさえあれば起きる状況となった。(その後、1672年に「親の反対を無視して赤ん坊に強引な洗礼をやった」宣教師が殺され、スペインは報復を始める。)報復は報復を呼び、戦乱はマリアナ全島に拡大して「スペイン=チャモロ戦争」となった。だが、マゼランのころより長足の進歩を遂げている火器の前に、グアム島の村は全家屋を焼きつくし、ほとんどの住民を殺しつくすという「三光」作戦的残酷戦術によってほろぼされてゆく。……1680年に赴任してきたキロガ総督は、ヨーロッパの戦場できたえいた兵術と最新兵器でグアムを地獄の島と化し、さらに逃亡者を追ってロタ島など北方の島々にも虐殺遠征隊軍をくりだした。彼の統治下の2年間だけで、チャモロ人口は4万人から5千人に激減する。<本多勝一『マゼランが来た』1989 朝日新聞社 p.176-180>
アメリカによる併合
 その後スペイン支配が続いたが、19世紀後半になってアメリカ帝国主義が太平洋の分割に乗り出し、1898年の米西戦争の結果として締結されたパリ条約によってアメリカ合衆国領となった。太平洋戦争中は日本が占領し、激戦地となった。現在もサイパン島とともにアメリカ領で、海軍基地が置かれており、またリゾート地として観光客を集めている。

 

観光客を積極的に誘致し、永住権を取得しやすくしていくことの背景には、そうしなけえば虐殺されてしまうという恐ろしい事実が存在していることを私たち先住民は肝に命じておかなければならないのである。

「「ワクチン危険!じゃないんだ」は危険」

ナチュラル系育児をよしとして予防接種を受けてこなかったが、「ワクチン危険!じゃないんだ」と気づいて中学生の娘に計画的に予防接種を受けさせているという記事を読んだ。

 

私は、人類学の知識を踏まえて「「ワクチン危険!じゃないんだ」は危険」であることを指摘しておきたい。

 

人類学の中でも狩猟採集社会を中心に扱っていると、多くの狩猟採集者たちが平等社会を実現していることに気づく。狩猟採集社会には富の蓄積がないから当然だとする見方は否定され、平等性を維持するための仕組みが作られているからこそ平等性が確保されているのだということがわかってきている(『平等と不平等をめぐる人類学的研究』)。

 

腕の良い男から他のメンバーへという一方的な贈与ばかりが発生していては依存関係が生まれてしまうから、採集した植物資源や、加工した料理の再配分を通じて、一方的な贈与になることが避けられているというのである。

 

このことからわかるのは、私たちは人の善意をあてにしたシステムを採用すべきではないという事実である。善意を前提としてシステムを作りあげると、そこを基点としてシステムは崩壊してしまうのである。

 

平等性の高い社会を作るには、それを担保する仕組みが必要であり、善意にまかせておくことはできないのである。

 

さて、ワクチン接種について考えてみよう。私たちは、ワクチンの危険性について確認するすべを持っておらず、ワクチンが安全であるかどうかを提供者側の善意に依存している。

ameblo.jp

「ワクチンによる副反応によって、重症になったり、死亡した赤ちゃんや子供の件数は、本当のデーターが公表されていない」のである。

 

秘密にすることができるようなシステムのままにしてあるということが何を意味しているのかは、狩猟採集者たちであればあっさりと見抜いてしまうのである。

「親の暮らしは豊かだが、子の新規参入は困難だ。ならば親と暮らそう。」とニホンカモシカやオオカミは言った。

ニホンカモシカの母親は、一年に一度子を生む。そして、次の子が生まれる前に前の年に生まれた子をなわばりから追い出してしまう。しかし、食糧が豊かな年には、そのまま居座らせることがあり、三頭の子が母親と一緒に暮らしていることもあるのである。(『野生のカモシカ』)食糧が豊かであれば、さっさと子を追いだして新しいなわばりを見つけさせればよさそうなものなのだが、実際には逆になっている。

 

 

 

オオカミの群れも不思議である。オオカミは両親と子どもたちによる群れを作ることが一般的だが、獲物が豊富になると、おそらくはニホンカモシカと同じような事情で群れに含まれる個体の数が多くなるのだ。この場合、20頭もの群れの中で繁殖を行うのは1組のペアだけとなる。獲物が豊富だからどんどん増えようというのではなく、かえって繁殖行動が抑制されているように見えるのである。

 

親のなわばりから追い出された子たちは、すでに他の個体のなわばりによってほとんど埋め尽くされた土地で、新しいなわばりを得る闘いを強いられる。幸運にも持ち主がいなくなったなわばりを見つけるか、弱い相手と戦って勝てば生き延びることができるが、多くの個体は闘いに破れて死んでいくことになるだろう。エサが多いからといってなわばりの数が増えるのではなく、なわばりの中の個体の密度を上げることで無駄死にを避けているように見えるのだ。

 

このことを二ートの増加と結び付けて考えてみると、一つの仮説が浮かび上がる。私たちの社会は、労働人口の多くが第一次産業に従事していた状態から、第二次および第三次産業に従事する状態へと変化する中で、概ね求人倍率の高い状態が続き金銭的余裕も生まれていった。しかし、なわばりの数が飽和するように求人倍率が下がる中で、親の世代は以前の状況を引きずって比較的金銭的に余裕を持っていた。このため親たちは、子を無駄死にさせるよりも自分のなわばりの中に留まることを許した。これが二ートの増加であった。このように考えられるのである。

 

なわばりについて調べてみると、鮎の場合は、個体の密度が高すぎると縄張りを持つことを諦めて群れ鮎として過ごす個体の割合が増えるなど、さまざまな要因がからみあっており、単純に説明することはできないようである。しかし、動物たちと私たちは、まったく同じ力学に従って行動を変えているように見えるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

お勧めの2017年カレンダー 山と渓谷社 七十二候めくり

本音を言えば、カレンダーなど必要のない世界で暮らしたいのですが、そうもいかないので、日付に縛られた生活を2017年も送ることになりそうです。

 

そんなわけで、日々の生活を彩ってくれそうなカレンダーを探しに行ってきました。

 

そこで気に入ったのがこのカレンダーでした。日頃から好感を持っていた山と渓谷社から出ています。

 

七十二候めくりなので、5日に1枚めくることになります。

七十二候 今日は何の日〜毎日が記念日〜には、七十二候が次のように解説されています。

二十四節気は半月ごとの季節の変化を示しますが、これをさらに5日ずつにわけて、気象の動きや動植物の変化を知らせるのが七十二候で、これも古代中国で作られました。古代のものがそのまま使われている二十四節気に対し、七十二候の名称は何度も変更されています。日本でも、日本の気候風土に合うように何度か改訂されました。1874(明治7)年の「略本暦」では、それまでと大幅に異なる七十二候が掲載され、現在ではこの七十二候がつかわれています。

日本の気候風土に合うように改訂が重ねられているだけあって、季節の移り変わりを確かに感じることのできる内容になっています。

 

このカレンダーを検討していて特に気に入ったのは、収録されている写真が七十二候に記された内容にできるだけ忠実な、さわやかな自然とそこで営まれる実直な暮らしを思わせる写真であることでした。5日に1回ページをめくるたびに、このような写真と出会うことのできる一年間を想像して、購入を決めました。

 

2016年版も出ていたようでしたが昨年は気づいておらず購入できませんでした。始めて利用するのでまだ暫定にはなりますが、お勧めしたい商品です。人の本来の生き方を思い出すために、まず季節感を感じながら暮らしてみませんか?

 

 

 

 

 

読んでよかった「自然」の本

こんにちは。

この記事に興味を持っていただきありがとうございます。

 

皆さんはどんな基準で本を選んでいらっしゃるのでしょうか。

 

私は、人の本当の生き方を知りたくて本を選んでいます。

 

健康・医療・食・脳・心・肉体・生命・動物などのキーワードに反応して本を手に取り、特に、人類が長く続けてきた狩猟採集という生き方に着目しています。

 

この観点から本を選び始めて5年ほど経ちます。

 

その中で「自然」を題名に含む本を割と多く読んでいることに気付きました。いずれも良い本ですので、今回まとめて紹介させていただきます。

 

記事の件名に「自然」と書いてあったので、さわやかな自然を思わせる本を期待していた方には、申し訳ありませんが、そのような本は含まれていません。

 

1. 自然農法 わら一本の革命

これは有名な本なので読まれた方も多いかと思います。ただ、福岡さん自身、農耕に疑問を持たれていたのではないかと私は見ています。この場合の「自然」は、自然界から学び、自然界に近い状態を作ることを意味していると思われます。

 

2. 自然に聴く―生命を守る根元的智慧

書評を書く予定でしたがまだ書けていない本です。この本も『わら一本の革命』と同じく、化学肥料を大量に使い、土を殺す農業に疑問を感じた結果生まれた本です。書評を書くことができないのは、『自然に聴く:生命を守る根元的智慧』 - 毎日出てゐる青い空で取り上げた以上に共感できる部分がなかなかないためでもあります。しかし、自然界に従う以外にないという思想に私は強く共感しました。

 

3. あと40年健康を保つ 自然食の効力

私がこのような本を読む目的は自分の健康のためではなく、人の本来の食べ物を知ることに重点があります。この本は、小魚やエビなどを丸ごと食べること、野菜なども生で食べることの大切さなどを教えてくれました。肉や魚を食べることが悪いのではなく、家畜や養殖された魚介類、栽培された果物・野菜が健康に悪いのではないかという考えを私が持つに至った出発点になった本かもしれません。

 

4. 虫はごちそう(自然といきる)

これはしばらく手元に置いてあって、もっと早く読めばよかったと感じた本でした。この本が、「自然」という言葉から私たちが思い描く、野山の広がる世界というイメージに一番近い本であると思います。 自然といきることの楽しさが伝わってきます。

 

5. 動物たちの自然健康法

この本を読むと、動物と私たちとの近さを感じることになります。動物も健康法を持っていることを知ると、世界観はかなり変化するのではないでしょうか。一度は読んでおきたい本の一冊です。

 

6. 家庭でできる自然療法: 

一般の書店にないので、この本を知っている人は少ないでしょう。私が、風邪薬を飲む必要がないと知ったのは、この本に記載されている熱さましの方法で妻が熱を冷ましてくれたことがきっかけでした。それまで、病気といえばすぐに薬局の薬に頼っていたのが、今では、妻よりも私のほうが自然療法に傾いています。

 

7. 本物の自然療法

動物たちの自然健康法』で動物たちも薬草を使うことを知ったり、『あと40年健康を保つ 自然食の効力』で病気のときは断食して休むのがよいと知った上で読むと、この本の内容は、それらと矛盾する内容であったりします。それにも関わらず、『自然に聴く―生命を守る根元的智慧』と同様に、自然界に従う以外にないという思想が根底にある点で大いに評価したい本です。特に、私たちは、他の生命と切り離された命として存在することはできないと明確に指摘してあるところに、現代を生きるすべての人類に対するメッセージを私は読み取ります。

 

8. 覚醒する心体―こころの自然/からだの自然

この本全体に込められたメッセージは、私の考えるところとは大きく異なっています。また、内容も難しく十分に読み取ることができていない本です。それにも関わらず、ここに上げた本の中で最も重要性を持つ本であると私は受け止めています。その理由は、「<私>という存在のもっとも本質の部分に横たわっているもの(本質そのもの)は「<私>のコントロールできないもの」である」という重要な事実を教えてくれた本であるからです。私たちは、私たちの意志によって、世界を作り変えていくことができると考えがちですが、人の本来の生き方を探る読書を通じて見えてくることは、「私たちには、地上で生まれ地上で死ぬ生物としての生き方以外に生き方はない」という事実です。肉体から離れることもできなければ、寄生虫やウイルスを全滅させることも、精神だけの存在になることもできません。本書では、こうして、自然として存在する人生を「わたしの人生」として受け入れる主体が生まれるといっています。そこに、言葉によって当事者性を奪われた私たちが当事者性を取り戻すチャンスがあり、生物として束縛された生を受け入れていく、人類が地球環境を破壊しない唯一の道があると私は受け止めています。

 

「自然」という言葉を私たちが思い描くとき、自然に聴く―生命を守る根元的智慧』、本物の自然療法』、『覚醒する心体―こころの自然/からだの自然』で指摘されているような、私たちの生を束縛するものとしての自然はほとんど意識されでいないでしょう。

 

しかし、「自然」の持つ真の重要性は、これらの本で指摘されている、私たちの生を束縛し、私たちのコントロールできないものとしての自然であり、動物たちのように、それに身を委ねることで私たちはようやく大きな安心感を得られ、自然界に包まれたまま生きることができるのではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

火を放つ

動画をいくつか紹介します。

オーストラリアのアボリジニが野焼きをして狩猟のしやすい環境を作っていたことを示す動画です。

 

 

 

 

 

 

アボリジニ遠い昔に農耕を行っていたかもしれませんが、伝統的な暮らしは狩猟採集生活であると見なされています。しかし、アボリジニの社会を他の狩猟採集社会と比べると、他の狩猟採集者たちが「 政治、宗教、経済といった面での社会的分業も未分化で、社会的統合のレベルも低く、集団の意志を長期的にわたって左右できるリーダーも存在しない」とされるのに対して、アボリジニの社会は、随分複雑であるという特徴があります。

 

このような複雑さは、アボリジニが狩猟採集者なのではなく、野焼きを利用して狩猟採集型の農耕を行う農耕民であるところに発しているのかもしれません。

 

アボリジニによる野焼きは自然と共存するための知恵*1なのか、それとも、里山千枚田と同じように、ある程度自然と共存しながらも、本来の自然を大きく変えてしまう活動*2なのか。

 

*1 アボリジニーの感覚では神話的時代と現代とのあいだにへだたりはない。実際、つい百年前まで、「文明人」からいわせれば石器時代そのままの暮らしをしていたのである。この「未開人」が蓄えてきた知恵は、しかし、自然保護ひとつとってもたいへん理にかなったものが多い。たとえば彼らは、雨期の終わりに草原や林に火を放つが、これは白人が考えていたような自然破壊行為ではなく、植生を保つのに役立っている。野焼きをしないと落ち葉がたまって、乾期に手の付けられない大規模な火事が引き起こされる可能性があるし、背の高い草や木が茂って、アボリジニーの食糧であるカンガルーなど中型の動物の生存圏を狭めてしまう。

 

*2 オーストラリアでフィールドワークをしていると、アボリジニに惚れ込んでいる人々に出会うことがある。彼は一様に「アボリジニたちは自然と共に生きている」というのである。確かに彼らはいまだに自然の実りを口にする部分が大きい。自然に対して手を加えることは少ないかに見えるが、はたしてどうであろうか。すでに述べたように、彼らは明らかに森に火を放ちそのことによって森を管理している。ブッシュに火をつけることは、大気中の二酸化炭素濃度を増やすことにつながる。したがって、昨今の地球温暖化論議からしても、まさに環境破壊である。もっとも、狩猟採集民や焼畑耕作民の火によって増加する二酸化炭素放出量よりも、工場や発電所、塵埃処理のためのそれの方が遙かに多いだろうが。
 しかし、考えてみると人間はそもそも環境を破壊してしか生きていけない動物なのではないか。出アフリカ以来、人間が到着した新しい土地から次々と大型動物が消滅している。オーストラリアでもディプロトドンなどの大型の動物は、人間が大陸にやってきた後に絶滅した。環境に手を加えて単一の植物種のみを栽培する農業もその最たるものである。人間のなんと業深いことか。

それはともかく、原始的な生き方をしているように見える人々の実像を知ってみれば、その土地で得られる環境を生かして長く生活を続けるための知恵が詰まっていることに、私たちはここでも気づくのです。